Day: 2月 26, 2019

とまどう瞬間

甘党だった父は1940年代のある日、幼かった私を連れて行きつけのドーナツ店に行きました。ドーナツを買って車に戻ると、父は私に「もう一つ寄るところがあるんだ」と言いました。勤務先の同僚が亡くなったので、遺族にお悔やみを言いに行きたいと言うのです。

そこに着いて車を停め、エンジンをストップさせても、父はなかなか動こうとしませんでした。実際には数分だったかもしれません。ついに私は「父さん、中に入らないの」と尋ねました。すると父はハンドルに突っ伏して肩を震わせながら、「何と声をかければいいのか、わからないんだよ」と声を詰まらせたのです。

父は葬儀が苦手でした。幼い時に母親を亡くした父にとって、人の死は、母の愛を失ったつらい記憶をよみがえらせるものだったのかもしれません。ついに中に入ったものの、弔問を終えて車を走らせてから家まで、父は黙りこくっていました。

同じく私たちにも、戸惑ったり、古い心の傷がうずいたりして、ことばがみつからないときが少なからずあります。たとえば、

  • 末期ガンを宣告された友人を見舞いたいが、ことばが見つからない。
  • ある教会員の息子さんが、自らの命を絶った。礼拝に出てきた夫妻にどう話しかけて良いかわからず、つい避けてしまう。
  • 離婚後、初めて教会に来た男性が、ホールの隅でポツンと立っている。かけることばがないので、誰もが無言で通り過ぎる。

こういうケースを聞くと、私はヨブの話を思い出します。ヨブの3人の友人は彼の苦しみを聞き、彼と悲しみをともにし、慰めようとやってきました。彼らは7日間黙っていましたが、ついに沈黙を破りました。しかし、慰めとなるようなことばをかけることはできませんでした。

苦しむ人に寄り添い、傷口に塩をぬるようなことをせずにそっと手を差し伸べるために、 ヨブ記1~6章から学ぶことができます。そこには、慰めのことばが切に必要な人に対して、何を言い、また何を言うべきでないか、たくさんの知恵が詰まっています。

父親の鏡

古代のウツの地で、最高の父親は誰だったかと聞かれたら、それは文句なくヨブでしょう。彼は潔白で正しい生活を送っていたと、ヨブ記の冒頭はこれ以上ないことばで称賛しています。財産も豊かで、信仰面でも神とともに歩み、10人の子どもたちのためにいつも祈りをささげていました。

それだけで終わっていたなら、友人の慰めなどいらなかったでしょう。しかし、この物語にはまだ続きがあります。ある日、天で神とサタンのあいだに会話が交わされます。その後、ヨブの生涯は一変するのです。

サタンの攻撃

ヨブ記1章には、何千年も前に神とサタンとの間で交わされた会話が記録されています。この記録から、サタンについて多くのことを知ることができます。黙示録12章10節で、サタンは 「兄弟たちの告発者」と呼ばれますが、サタンがヨブ記1章でしたのは、まさしく告発です。彼は地を行き巡って、堕落した人類の失敗をつぶさに見たのです。

これに対して神はどう対応したのでしょう。神は敵サタンに対して、ヨブの生活を見て、その人となりに目を留めるように促されました。

「おまえはわたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にいないのだが。」(1:8)

追い込まれたサタンは、神はえこひいきをしていると責めます。ヨブの誠実さは本物ではない、彼とその家族の回りに神が祝福の垣を巡らした結果だというのです。ヨブは子だくさんで家畜も多く、裕福でした。望みうる限りのものをくれた神を拝まない者がいるのかと反論したのです。サタンは言いました。

「あなたの手を伸べ、彼のすべての持ち物を打ってください。彼はきっと、あなたに向かってのろうに違いありません。」(11節)

サタンがヨブから祝福を奪うことを神が許すとは、なんということでしょうか。そんなふうに驚くのは、当然のことです。しかし、数千年の時間を隔てて読んでいる私たちは、何度も読んでいるためにこの物語にショックを感じなくなっているのかもしれません。確かに、ヨブの命にはふれるなという線は引きました。しかし神は、それ以外は、サタンが思うようにすることを許されました。

サタンはこうして、ヨブの人生に苦難の嵐を巻き起こすのです。神とサタンとの戦いが原因で、ヨブは祝福の垣が壊されるという経験を余儀なくされました。この物語を読み進めるにあたって、ある重要なポイントがあります。それは、ヨブが1章のいきさつをまったく知らなかったということです。ヨブは、天での会話について知る由もありませんでした。フィリップ・ヤンシーは『神に失望したとき』で、こう言います。

「ヨブ記を推理劇、『誰がやったか』式の探偵小説と考えるとわかりやすいだろう。劇が始まる前、それを鑑賞する私たちは、こっそり内容を教えてもらうのである。監督が自分の作品を説明する記者会見に、私たちが早めに姿を見せたかのように(1-2章)。監督は筋書きを話し、中心人物の説明をし、前もって、この劇では誰が何をするのか、それはなぜなのかを教える。実際、監督は劇中の謎をことごとく解き明かすが、例外が一つある。主人公はどういう反応を示すのか。ヨブは神を信頼するのか、それとも否定するのか。その説明はない。

幕が上がると、舞台の上には役者だけがいる。役者たちは劇に閉じ込められていて、監督があらかじめ告げたことは一つも知らない。私たちは『誰がやったか』という疑問の答えを知っているが、探偵を演じるスターのヨブは知らない。ヨブは舞台の上での時間をかけて、私たちがすでに知っていることを発見しようとる。......ヨブはどんな間違いを犯したのか。何も悪いことはしていない。ヨブは人類の最上の者を代表している。神ご自身がヨブのことを『潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている』と言われなかっただろうか。ではなぜ、ヨブは苦しみを受けているのか。懲罰のためではない。天上の戦いにおける、代表戦士として選ばれたのである。」(山下章子訳 いのちのことば社 157-158ページ)

人間はなぜ苦しむのか。しばしば私たちは、この問題への明快な答えを求めてヨブ記に向かいますが、そこには答えがありません。あるのは、大災害のただ中で神に対するゆるぎない信仰を貫いた人の姿です。

ヨブの試練

ある朝、10時に電話が鳴りました。それは、インディアナにいる長男のジムからでした。悲痛な声で、「デーブが撃たれた」と言うのです。泣きじゃくりながら話すジムのことばをつなぎ合わせ、やっと少し状況がわかりました。強盗が押し入ったばかりの店に私の末の息子のデーブがたまたま立ち寄り、両手を一発ずつ銃で撃たれ、病院に担ぎ込まれたというのです。

私たちはすぐさま、インディアナに駆け付けました 病院に着くと、息子の病室の前には警護の警官が付くという物々しさでした。入室を許されると、デーブが自ら事の次第を話してくれました。彼の不安な心を慰め励まそうと、詩篇の91篇を読みました。すると、10-11節に目が留りました。

「わざわいは、あなたにふりかからず、えやみも、あなたの天幕に近づかない。まことに主は、あなたのために、御使いたちに命じて、すべての道で、あなたを守るようにされる。」

デーブが自分の傷口を指差して言いました。「でも、ボクのこれはどうなの?」

あなたを守ると約束された神への信仰が、試された瞬間でした。信じられない悲劇に矢継ぎ早に襲われ、人生最大の危機の中で、ヨブの信仰も私たちと同じように試されたのです。

1.所有物を失う

ヨブは、「東の人々の中で一番の富豪」と言われています(1:3)。ヨブ記の著者は、ヨブがそう呼ばれるにふさわしい人物であったことを説明します。古代社会では、人の富は羊や牛の数で測られました。そして、ヨブほど富んだ人はいませんでした。羊が7千頭、らくだが3千頭、牛が千頭、雌ろばが5百頭です。1万1,500頭の家畜を飼うのに、ヨブは広大な牧草地を所有していたでしょう。ところが、読み進むと、一日でそのすべてを失ったことが分かります。使いがヨブのところに来て言いました。

「シェバ人が襲いかかり、これを奪い、......神の火が天から下り、羊と若い者たちを焼き尽くしました。......カルデヤ人が三組になって、らくだを襲い、これを奪い......。」(1:15-17)

ヨブの災難は、20世紀のある出来事を彷彿とさせます。1929年10月、株価が大暴落し、ウォール・ストリート最大の市場投資家たちが数時間のうちに破産したのです。

オフィスの窓から飛び降りた人もいました。ついこの間まで億万長者だった人々が、食事配給の列に並びました。何もかもが、一変してしまったのです。

M&Aだ、アウトソーシングだ、ダウンサイジングだなどという言葉が飛び交うこの時代、多くの人が職を失っています。このような危機に直面したクリスチャンはみな、それでも自分は神を信じるのかどうかを厳しく試されています。

しかし、富や持ち物を失うことは、ヨブにとってまだ最悪の事態ではありませんでした。

2.子どもたちを失う

膨大な数の家畜を所有していたヨブは、10人の子持ちでもありました。7人の息子と3人の娘です。仲の良い兄弟たちだったようで、定期的に祝宴を開き、互いの家に招きあっていました。7人の息子たちは曜日ごとに、それぞれの家で毎日宴会を開いていたと考える人もいます(1:4)。

ヨブは、子どもたちが祝宴のさなかに神に罪を犯すかもしれないと考え、朝早く起きて子どもたちのために祈り、彼らのために全焼のいけにえをささげました。家族の祭司の役を果たしていたのです。

その祝宴のさなかに悲劇が起き、10人の子どもすべてが失われました。使いがその知らせをこのように伝えています。

「荒野のほうから大風が吹いて来て、家の四隅を打ち、それがお若い方々の上に倒れたので、みなさまは死なれました。」(1:19)

ヨブは打ちのめされました。この世の終わりのように感じたことでしょう。まず財産が消滅し、いまやすべての子どもも取られました。

数年前のこと、私が牧師をしていた教会の役員から電話がかかってきました。彼の妹とその家族が、大事故に遭ったのです。水曜日の夜で、雨が降っていました。彼女は娘3人を連れて車で教会に行くところでした。教会の駐車場に入ろうとハンドルをきったところに、他の車が後ろから突っ込んできたのです。3人の娘全員が死亡し、母親だけが助かりました。その役員は、3人の姪たちのために弔辞を読むように頼まれましたが、ことばが見つからないと言って困り果てていました。

私は妻と葬儀に参列しました。この夫婦は、ヨブのように子どもをすべて失ったのです。数百人の列席者は皆、泣いていました。その日の午後、私は初めて、ヨブの苦悩がどれほどだったかを垣間見たように思いました。

そして最近、私は再びヨブが子どもたちを失ったことについて思い起こす機会がありました。日曜の夕礼拝で、ベス・レッドマンとマット・レッドマン作の「あなたの御名はほむべきかな」という賛美を全員で歌っていたときのことです。その歌詞には、喪失体験の理由や目的がわからなくても神を信頼し続けるのだ、という信仰の姿勢が現されていました。

あなたの御名はほむべきかな
日が射しているときに 世が平穏無事なときに
あなたの御名はほむべきかな
あなたの御名はほむべきかな
苦しみの道を行くときも ささげものに痛みが伴うときも
あなたの御名はほむべきかな

作詞者は、繰り返しの部分を書く前に、ヨブの物語を読んだにちがいありません。

あなたは与え あなたは取られる
あなたは与え あなたは取られる
でも私の心は言う
主よ あなたの御名はほむべきかな

これが、10人の子どもを失ってなお、主をほめる驚くべきヨブの応答でした。ヨブ記1章20~21節にはこうあります。

「ヨブは立ち上がり、その上着を引き裂き、頭をそり、地にひれ伏して礼拝し、そして言った。『私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。』」

状況に左右されない、この深い信頼のことばを読むとき、私は 「ヨブよ。君には負けた」と言わざるを得ません。1963年から1979年までの間に、私の最初の妻の家族は、次々とガンに侵されました。まず義母を、そして義理の姉を失い、次に義父、そして1979年にはついに、妻までもガンで世を去りました。ひと家族全部を失ったのです。みなクリスチャンで、それも教会の指導者たちでした。

イエスが苦しみの中でゲツセマネの園に行かれたように、家族の苦しみの杯を取り去ってくださるように、私も神に願いました。にもかかわらず、それはかないませんでした。正直に言うと、私はヨブのように神への信頼を告白することはできませんでした。「どうして」とただ、泣き続けるのみでした。苦しんでいる人とその家族は、そのような問いを口にするものです。

とにかくヨブは、神への信頼を試される第一の関門を突破しました。そこで敵であるサタンは、さらなる災難をもって攻撃の手を強めることにしたのです。

3.健康を失う

全財産と子どもたちを失った後、ヨブはさらなる災難に見舞われます。それは、彼自身の健康へのサタンの攻撃です。ある日サタンは再び主と対話をし、そこでさらに主に詰め寄ります。

「サタンは主に答えて言った。『皮の代わりには皮をもってします。人は自分のいのちの代わりには、すべての持ち物を与えるものです。しかし、今あなたの手を伸べ、彼の骨と肉を打ってください。彼はきっと、あなたをのろうに違いありません。』」(2:4-5)

主は、いのちには触れないことを条件に、サタンがヨブのからだに危害を加えることを許されました。

「サタンは主の前から出て行き、ヨブの足の裏から頭の頂まで、悪性の腫物で彼を打った。ヨブは土器のかけらを取って自分の身をかき、また灰の中にすわった。」(2:7-8)

サタンの二番目の攻撃について、デービッド・アトキンソン氏は言います。

「ヨブが直面しなければならないすべての試練に、病が加わった。神の許しにより、ヨブは悪魔からこの堪え難い忌むべき症状に悩まされている。足の裏から頭の頂までの痛みを伴う腫物(2:7)については、ハンセン氏病から象皮病にまで至るさまざまな病名が取りざたされている。彼は、重い皮膚病患者が行くところ、すなわち町の外の灰の中に行き、土器のかけらで自分の腫物をかいた。富んでいた者が、貧しい者となった。」(The Message Of Job IVP出版,1991年)

あなたには苦しんでいる家族がいるでしょうか。財産や子どもを失うという試練には遭っていなくても、健康を失っているかもしれません。もしそうなら、不安な気持ちで検査を受けるでしょう。医師から病気が見つかったという知らせを受けるなら、その人は恐らくこのようなことを考えるのではないでしょうか。

  • なぜ自分が?
  • なぜこんなことが?
  • なぜ今?

たとえば、もしガンで闘病中の友人がいたら、化学療法や放射線治療を受ける度に、詩篇77篇の問いがその人の頭をよぎっているかもしれません。

「主は、いつまでも拒まれるのだろうか。もう決して愛してくださらないのだろうか。主の恵みは、永久に絶たれたのだろうか。約束は、代々に至るまで、果たされないのだろうか。」(詩篇77:7-8)

疑問がわくのは信仰を試されているからです。試練の中にある本人はもちろん、その人を大切に思っている家族なら、当然そのように反応するでしょう。次に挙げるヨブの苦難は、さらなる心的打撃を与える試練です。

4.妻の理解を失う

ヨブの妻は、自分たち家族に次々と降りかかった災難に圧倒され、ひどく混乱したことでしょう。夫は、申し分ないほど立派な人で、よく祈り、家族を養い、守る人でした。ヨブのような人に、どうしてこのような悲劇が訪れなければならないのでしょうか。

マイケル・ホートン氏は「Too Good To Be True(信じられないほどに素晴らしい)」という著書で、信仰深い両親が見舞われた幾多の苦難に、ひどく混乱したと証しています。

「78歳の父ジェームス・ホートンは、良性の脳腫瘍と診断され、 緊急手術を受けた。......それが失敗に終わり、まもなく父には回復の望みがないことが知らされた。......家族の大黒柱になった母は、父のベッドの脇で15分おきに神経質に枕を直しながら、愚痴をこぼしていた。......そして、父の亡くなる2ヶ月前、母は自分の姉の葬儀で心のこもった弔辞を述べた。その帰途、私の運転する車の中で、母は突然、脳卒中の発作に襲われた。気丈で心の優しい母は、恵まれない子どもや、身寄りのない老人の世話に生涯をささげていたのだが、今や自分自身が人の手に頼る生活になった。......気弱になった私は、神は人生の最後の舞台でどうして最悪の場面を経験させるのか、といぶかった。......人のため、特に老人のために尽くしてきた人がこの世を去る時くらい、少し楽をさせてもらっても良いのではないだろうか。」(Zondervan, 2006年)

町の外の灰の山に座っている腫物だらけのヨブを見た妻には、 これと同じような疑問がつきまとったのではないでしょうか。もうたくさん......。それで彼女は言ったのです「神をのろって死になさい。」(2:9)

著名なイギリスの牧師G・キャンベル・モルガンは、家族が苦しむ姿を間近で見たことのある者だけが、ヨブの妻の心を理解できるだろうと言いました。病床にいる家族を愛すればこその叫びです。「あなたがこれ以上苦しむ姿を、私は見ていられない」という叫びです。

これはヨブにとって最大の試練だったでしょう。愛する妻の口からこんなことばを聞いたのですから。サタンはなんと悪賢いことでしょう。自分自身が言いたい言葉を、ヨブの妻に言わせたのです。あのヨブもとうとう降参かと、天使たちは天の欄干から身を乗り出して見物したことでしょう。

しかし、ヨブは悩む妻にこう答えました。

「あなたは愚かな女が言うようなことを言っている。私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けなければならないではないか。」(2:10)

ヨブの妻は神に対して腹を立てていましたが、神は私たちの怒りを受けとめられる方です。ヨブと妻とのこのような正直なやり取りは、むしろこの物語の信憑性を裏付けます。聖書の登場人物でさえ、神にもお互いにも怒りを抱くことがありました。

自分の財産や家族や健康を失ったことは、ことばにできないほどつらかったはずです。最初は信仰によって応答できていたヨブも、徐々に絶望の淵へと落ちていきました。

苦しみ、絶望している友を前に、私たちには何ができるのでしょう。どう声をかけるべきでしょうか。

苦しむ人を慰める

ヨブの3人の友人たち、エリファズ、ビルダデ、そしてツォファルは、ヨブの苦しみを聞き、見舞いに行こうと決めました。彼らは、恐ろしいほどの孤独に苛まれ、灰の中にすわっているヨブを見つけました。この3人も初めは、少しは良いことをしたのです(2:12-13)。ところが、後になってヨブは彼らを「煩わしい慰め手だ」と呼びました(16:2)。それはそうとして、まずは苦しんでいる人を慰めるために、この3人がした良いことを検証しましょう。

1.共にいる

「ヨブの三人の友は、ヨブに降りかかったこのすべてのわざわいのことを聞き、それぞれ自分の所からたずねて来た。......彼らはヨブに悔やみを言って慰めようと互いに打ち合わせて来た。」(2:11)

苦しむヨブの所に来るには、3人の友人はそれぞれ、犠牲を払わなければなりませんでした。旅費、自分の予定の変更、そしてどこかの村で落ち合うための時間です。それでも犠牲を惜しまず、ヨブに会いに来ました。

マルコの福音書2章にある物語が思い浮かびます。体の不自由な友人を助けた、4人の男たちです。マックス・ルケード氏は、著書「He Still Moves Stones(神はいまも石を動かされる)」の中で、この物語をこう描きます。

「彼の両足は、付属品のように垂れていた。......自分の手足を見ることはできても、その感覚はなかった。......顔も体も、だれかに洗ってもらわねばならず、一人では鼻をかむことも、歩くこともできなかった。......『からだ一式そっくり取り替えねば』と言われるような状態だった。」(Thomas Nelson, 1999年)

イエスがカペナウムに2度目の訪問をした時、この4人の男たちは障害のある友人に、「君をイエスの所へ連れて行こう」と言いました。何ものも彼らを止めることはできません。

「人が大勢集まっていて入れないなら、屋根をはがしてでもイエスの所に連れて行くさ。」

寝床に寝かされたまま、4人の友人によってイエスのところへ運ばれた男は、帰りには新しい足を与えられ、歩いて帰りました。罪をも赦されて。

苦しんでいる友の所へ行くことは、やさしいことではないでしょう。しかし、苦しむ人には、思いやってくれる人が必要です。ですから、もし御霊の促しがあるなら、少々の不都合はあっても行くべきです。ヨブの3人の友人は、友のそばに行こうという御霊の促しを感じ、それに応答したのです。

2.黙って座す

「彼らは遠くから目を上げて彼を見たが、それがヨブであることが見分けられないほどだった。彼らは声をあげて泣き、おのおの、自分の上着を引き裂き、ちりを天に向かって投げ、自分の頭の上にまき散らした。こうして、彼らは彼とともに七日七夜、地にすわっていたが、だれも一言も彼に話しかけなかった。彼の痛みがあまりにもひどいのを見たからである。」(2:12-13)

ヨブの友人たちは、泣き、服を引き裂き、頭の上にちりをまくという典型的な中東のやりかたで悲しみを表しました。それから、なんと7日7夜、黙って彼のそばにいたのです。

音楽や会話、テレビやラジオなど、さまざまな音があふれる21世紀に生きる私たちにとって、ヨブと友人たちが過ごした沈黙の1週間は想像しがたいものです。しかし、沈黙を恐れる必要はありません。苦しみに向き合うとき、沈黙はけっして悪いものではないのです。あなたが苦しむ友のそばにいるのは、説教したり、問題を解決してあげたりするためではありません。ひとりの人間として寄り添うためです。

沈黙は、苦しんでいる人との心のきずなを強めることができます。痛みを味わった多くの人が、抱きしめてものを言わずに腰を降ろし、「あなたは大切な人よ」とだけ言って立ち去った人に一番慰められたと言います。

神学者スタンリー・ハワーワスが、「苦しむ存在」という著書で、沈黙の意義についてみごとに説明しています。友人のボブが、母親の自死による悲しみから立ち上がろうとしていましたが、ハワーワス氏にとって、そんなボブのそばにいるのは居心地の良いことではありませんでした。誰でもそうでしょうが、何と声をかければ良いかわからなかったからです。ただ、ボブのそばに座っていることしかできませんでした。

しかし後になって、自分がただそばにいることこそ、友人が最も望んだ、また必要としていたことだと思うようになりました。自死という悲劇を心理学的に説明しようとしたり、神学的な見解を述べたりは一切せず、友人としてただ共にいることを選びました。その無言で注がれた愛と思いやりの香油は、友人の傷ついた心に深く染み入ったことでしょう。それこそ、ヨブの友人たちがした良いことのひとつです。そして私たちも、そうすることができます。

3.耳を傾ける

ヨブの友人たちは、中東のマナーに従って苦しむ友が口を開くまで黙っていました。1週間の沈黙を破って、ヨブはついに自分の心のうちを話し始めました(3:1)。そして彼らは耳を傾けたのです。

3章では、悲しい現実が記録されています。ヨブは、死んだほうがましだと言ったのです。ヨブ記がここで終わらないのは幸いです。「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」(ヨブ1:21)というのが信仰の英雄の姿とするなら、ヨブ記3章は、ヨブの人間性を明らかにする正直な絶望の叫びです。本章で、ヨブは7度「なぜ」と問いかけます(11、12、20、22、23節)。このことばには共感を覚えます。なぜなら、苦しみに遭う人は誰もが「なぜ」とつぶやきたくなるからです。

ヨブの絶望はどれほどだったでしょう。自分の生まれた日をのろい(1節)、生まれた日に死んでいたらよかったと願い(11節)、いまも死を望むほどでした(21節)。死を強く願うことばが次々とつづられ、3章の結びで「絶望と怒り」 という二つの感情を明らかにします。ヨブは、神への怒りを隠しませんでした。

「神の与えるものが無益と失意の人生だけだとしたら、なぜ、人を生まれさせるのだろう。」(23節 リビングバイブル訳)

ヨブの友人たちは、ヨブの不平や疑問、そして絶望の叫びをしばらく聞いていました。しかし、残念ながら、この3人は彼の心の苦しみを理解しようと耳を傾けるのではなく、その問題に対する神学的な答えを見つけようと忙しく頭を動かしていたようです。

男性は、一般的に問題を解決するまとめ役になろうとします。ヨブの3人の友人も、何とかして自分たちで彼を窮地から救おうと思っていました。しかし、心の問題を見逃していました。これは私にとっても、人ごとではありません。

結婚当初、妻が何かで困っていると、私たちは夜中まで話し合いました。私はヨブの友人たちのように、聞くのはそこそこにして、問題を解決するであろう聖句をあれこれと頭の中で考えたものです。私が彼女の心に耳を傾けるようになったのは、何年も後のことです。

もしあなたがそこにいて、ヨブのことばを聞いていたとしたらどうでしょう。その絶望、混乱、怒り、恐れを耳にしたら、何を言えるでしょう。分析したり、吟味したりするでしょうか。それとも、あふれ出る感情をしっかり聞いて受け止め、こう言うでしょうか。

「私には答えがありません。でもあなたの心を聞かせてください。苦しむあなたのことを心にかけています。私はあなたの味方です」と。

友人のことばに耳を傾け、慎重に選んだことばを口にするほうが、4章にあるヨブを責める辛辣なことばより、はるかに役立ちます。

何を言うべきか

友人たちは1週間、ヨブとともにいました。彼らは涙を流し、耳を傾けました。しかし、彼らは灰の中に座っていたこの苦しむ友人の心を捉えられませんでした。ヨブは、心も体もぼろぼろでした。3人の友人は良いことをしよう、慰めようと思っていたのに、まさに、言ってはいけないことを言い、してはいけないことをしてしまったのです。

1.神の役を演じてはいけない

エリファズが最初に口を開きました。まず、ヨブが良い助言をして多くの人を助けたことを認めます。ところが彼は、そのすぐあとにヨブの頑固さを責めます。

「だが、今これがあなたにふりかかると、あなたは、これに耐えられない。これがあなたを打つと、あなたはおびえている。」(4:5)

こう責めた後、エリファズはもうひとつ大きな間違いを犯します。そして、これ以降同じ過ちを犯す、数知れない人々の先達となりました。ヨブの人生で神の役を演じたのです。

「さあ思い出せ。だれが罪がないのに滅びた者があるか。どこに正しい人で絶たれた者があるか。
私の見るところでは、不幸を耕し、害毒を蒔く者が、それを刈り取るのだ。」(4:7-8)

エリファズは人間の苦難という非常に深く困難な問題をとって、手っ取り早く単純な回答を提示したのです。「お前が苦しんでいるのは、罪を犯したせいなのだ」と。

ある意味で、これは正解です。私たちは道徳の支配する世界に生きています。蒔いたものを刈り取るという一般的な教えは、確かに詩篇1篇やガラテヤ人への手紙6章7節に教えられています。

しかし、別の意味でエリファズは間違っています。彼は、人生におけるすべての苦しみは罪の結果だと主張しました。ヨブが密かに罪を犯したのだと責めることで、ヨブの苦しみを自分の小賢しい理論に押し込めようとしたのです。

アーサー・T.ピアソン博士は、『The Bible And Spiritual Life (聖書とクリスチャン生活)』の中で苦しみの問題にふれ、安易な回答はないと言っています。

  • 私たちが堕落した世に住んでいるために起きる苦難がある。
  • 神が私たちを訓練しようとして下す苦難がある。
  • クリスチャンであるがゆえに襲われる苦難がある。
  • パウロの肉体のとげのように、神の力により頼むことを教える苦難がある。

親しい人が苦しみ、混乱し、神の愛についてこれまでに教えられたことと自分の人生の苦難との矛盾に悩んでいる時、私たちは、何かを言わねば、その苦しみをやわらげるために何らかの説明をせねば、と感じます。しかし、説明できないことを説明しようとするのは、やめたほうが良いのです。

神だけが与えることのできる答えを神に代わって出そうとする時、私たちは自分を神の立場に置いています。

古い聖歌で、「神が見ているように、明日を見ることができたなら」と始まるものがありますが、それは無理なことです。ですから、苦難を受け止めきれず混乱している人の心を手早く静めようと、その場で思いついた安易な言葉をかけることは、傷口に塩を塗るようなものです。一線を越えて神の役を演じないように、私たちは心すべきです。主権者であり、愛である主だけが人の苦しみの理由をご存じです。神の目的と計画を知っているのは、神のみだからです。

21世紀の教会にもエリファズの追従者たちがいます。悪気はないのですが、事故で入院している患者に向かって、惨事が起きたのはなぜなのかを説明しようとします。苦しみの床に伏す患者に聖書を引用して、神秘を解き明かそうとします。神のことは神に任せておくべきではないでしょうか。他人の苦しみの理由について、神の心を知っているかのように振る舞うことはやめましょう。神になり代わってはいけません。

2.ありきたりの気休めを口にしない

エリファズはヨブに向けて、無実な者が苦しむことがないのは事実だと言い続けます。彼は、自分が見た夜の幻を語ります。それがヨブの苦しんでいる理由を証明している、ヨブには罪がある、と言うのです。

「一つのことばが私に忍び寄り、そのささやきが私の耳を捕らえた。夜の幻で思い乱れ、深い眠りが人々を襲うとき、恐れとおののきが私にふりかかり、私の骨々は、わなないた。そのとき、一つの霊が私の顔の上を通り過ぎ、私の身の毛がよだった。...... そして私は一つの声を聞いた。人は神の前に正しくありえようか。人はその造り主の前にきよくありえようか。」(4:12-17)

とてつもない喪失感を味わったヨブに、夢や幻に基づく助言などいりませんでした。彼が必要としていたのは、表面的なありきたりの気休めではなく、心からの慰めです。

2007年4月16日、アメリカで史上最悪の銃乱射事件が起きました。バージニア州郊外の町ブラックスバーグに位置するバージニア工科大学は、実に平穏な環境にあります。その日も、のどかなキャンパスにいつもと変わらぬ朝が訪れ、午前の授業が始まったばかりでした。平和な風景が、一瞬にして惨状と化しました。情緒不安定で精神の問題を抱えた学生が、学内の2つの建物に侵入し、いきなり銃を乱射し始めたのです。その学生は、およそ170発もの銃弾で32人の学生と教授を殺害し、その後自分に銃を向けました。この事件は月曜日の朝の平穏を破り、人々は想像を越えた悲しみと衝撃に包まれました。

まもなく、キャンパスのスタッフや地域の人々の心のケアをするために、カウンセラーが要請されました。人々の心の傷は深く、慰めが必要でした。痛みや苦しみ、この世にはびこる悪について、誰もが考えさせられる状況でした。ありきたりの気休めを口にするときではありませんでした。

私たちの身近で苦しんでいる人たちも、気休めは必要としていません。動機は良くても、「神は最善をご存じだ」「彼女は今、幸せだ」「神は天使が必要だから、お子さんを取られたんだ」とか「ローマ8章28節は、すべてのことを働かせて益として下さるって書いてあるよ」 などという決まり文句は、悲しんでいる人々には何の役にも立ちません。

嵐の中を通っている人に何を言うべきか本当に知りたいなら、見舞いにきた友人たちに向かってヨブ自身が語った、知恵あることばに目を留めてください。

3.希望を示す

ヨブは希望を失いました。再び希望を抱くには、それなりの理由が必要でした。彼は友人たちに尋ねます。

「私にどんな力があるからといって、私は待たなければならないのか。」(6:11)

人生のどん底に落ちたヨブは、自分の心の状態をあたかも絵に描くように、真に迫って描写します。

「私の兄弟たちは川のように裏切った。流れている川筋の流れのように。氷で黒ずみ、雪がその上を隠している。炎天のころになると、それはなくなり、暑くなると、その所から消える。隊商はその道を変え、荒地に行って、滅びる。
テマの隊商はこれを目当てとし、シェバの旅人はこれに期待をかける。彼らはこれにたよったために恥を見、そこまで来て、はずかしめを受ける。」(6:15-20)

ヨブは、3人の友人には干上がった川のように失望したと言います。私は中東に住んだ経験があるので、この意味がよくわかります。当時、早朝のまだ暑くならないうちに、妻とともに散歩するのが日課でした。いつもの散歩コースに、ヨブが言っているような干上がった川がありました。ヨブは生き返るような希望のことばが欲しかったのに、聞こえたのは砂漠のように無味乾燥なことばでした。渇きを癒やしてくれる水を期待したのに、その期待は裏切られたのです。

ビル・ハイベルズ牧師は、「Just Walk Across the Room」という著書で、失望した人に希望のことばを語る必要性を強調しています(Zondervan, 2006年 162-163ページ)。たとえば、このようなことです。

  • 自分はだめな人間だと恥じている人には、神の恵みと赦しについて
  • いけないとわかっていてもやめられない悪癖に悩む人には、御子キリストによる解放と自由について
  • 弱っている人には、求める者に与えてくださる神の力について
  • 疲れた人には、イエスが約束されたたましいの安らぎについて
  • 貧しい人には、たましいの豊かさについて
  • 欠乏している人には、おりにかなった備えについて
  • 悲しむ人には、慰めと安らぎについて
  • 病の床で死を待つ人には、永遠のいのちと後の世での新しいからだについて

これらはすべて真理であり、当座の痛みを紛らわす気休めのことばではありません。ふさわしい時に親身になって語るなら、希望を失いかけた人の心に、一筋の光をもたらすかもしれないのです。

気の滅入るような暗い会話の最中に、ヨブは自分自身が語る明るい希望のことばによって、暗闇を突破します。苦しんでいる人たちに愛をもって接するとき、私たちもこのようなことばを語ることができるのです。ヨブの宣言は、究極の希望です。

「私は知っている。私を贖う方は生きておられ、後の日に、ちりの上に立たれることを。私の皮が、このようにはぎとられて後、私は、私の肉から神を見る。この方を私は自分自身で見る。私の目がこれを見る。ほかの者の目ではない。」(19:25-27)

このみことばを記憶にとどめておくことは、苦しむ人に接する上できっと役に立つでしょう。そしてマタイの福音書11章28節もまた、苦難の中で神への信頼が揺らいでいる人の助けになるみことばです。死や喪失という体験を通して、天の父の知恵や愛を疑いたくなるときがあります。しかし、イエスはこのように招いてくださいます。

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます 。」

苦しんでいる人がイエスの力強い胸に飛び込むとき、神が十字架を通して与えてくださった安らぎを見いだします。やがて天国に行くことが約束され、地上では神とともに歩むことができます。苦しみの中にいる人に与えられる最大の助けは、知恵と愛に満ちた神の御手に任せることです。そこに希望があるからです。

4.思いやりをもって話す

ヨブは、説教ばかりする3人の友人にこうも言いました。

「気落ちした友には、親切にすべきじゃないか。」(6:14 リビングバイブル訳)

ヨブ記6章には、ヨブの心情が正直に書かれています。「東の人々の中で一番の富豪」(1:3)と言われた人が、その地での最大の苦難を背負う人になってしまいました。友人たちの容赦ない非難に苦しんだヨブは、真実で正直であると同時に、愛に富んだ思いやりの感じられることばを聞きたいと願ったのです。ヨブの3人の友人は多くを語りましたが、そこに親切なことばはほとんど見当たりません。かろうじて親切と言えるものは、かつてヨブがつまずく者を起こし、くずおれるひざを立たせたことがあると彼らが認めた部分だけです(4:3-4)。

しかし、それは十分ではありませんでした。すさまじい苦しみの中、孤独が深い霧のようにヨブを包んでいたからです。

「神は私の兄弟たちを私から遠ざけた。私の知人は全く私から離れて行った。......私の家に寄宿している者も、...... 私を他国人のようにみなし」(19:13、15)

ヨブが友情を望んだのも無理はありません。つまり、ヨブは「議論ではなく、優しさがほしい」と言っていたのです。

私は、最初の妻を1979年に亡くしました。末期ガンを患っていたため、最期の日々はインディアナの自宅に病院用ベッドを置いて過ごしました。毎日のようにホスピスのスタッフの世話になりました。加えて、私たち家族は友人からもたくさんの愛を受けました。食事を運んでもらい、電話をもらい、カードを受け取りました。カードに記されたことばの多くに力づけられました。妻が元気だったころに相談に乗ったり、手助けしたりした人たちが、わざわざ感謝を表してくれました。親切で希望に満ちたことばばかりでした。ヨブが友人たちから聞きたいと願いつつ、得られなかったことばです。

では、親切なことばを必要としている人にそのようなことばを届けたいと思うなら、何と言えば良いのでしょう。心からのことばが最善です。たとえば、その人があなたにとって大切な友であることを伝えてはどうでしょう。思い出話をするのも良いでしょう。「必要なことがあったら何でも言ってほしい」「あなたは大事な人だよ」「いつでも電話をしてね」。

また、信仰の歩みにおいて助けてもらったと伝えるのもいいでしょう。あなたがその人を心から心配していることを、相手に伝えるのです。

楽しい思い出を語り合い、未来への希望を語るのがふさわしい時もあるでしょう。一方、苦しんでいる人に対して勇気をもって、正直になるべき時もあります。

5.正直に

6章25節で、ヨブは自分を責める者たちに向かって「まっすぐなことば」を要求します。

「まっすぐなことばはなんと痛いことか。あなたがたは何を責めたてているのか。」

ヨブは、このひどい苦しみの原因を知りたいと思いました。友人たちが自分の人生にどんな悪を見つけたのか、いったいどこで間違ってしまったのだろうかと。

身近な人が苦しんでいる時、その人は、自分はどうなってしまうのだろうという不安に襲われているかもしれません。悲劇に見舞われると心が傷つきやすくなるので、その気持ちを思いやり、耳を傾けて聞き手になることが重要です。チャンスを見計らいつつ、また勇気をもって、どんな疑問や恐れを感じているのかを尋ねることも、その人の助けになるでしょう。未知の事がらについて、不安や恐れがあるのかもしれません。

不治の病に侵された患者は、告知を受けた後しばらくすると、自分の状況や気持ちを話したいと思うようになると言われています。自分の恐れについて、そして、死についても聞いてくれる友がほしいのです。どこまで率直な会話ができるかは、その時々に応じて、神が示してくださるよう祈り求めましょう。

あなたの友人が離婚を経験して傷ついているとしましょう。あなたは理解しようという心で耳を傾けることができます。しかし、会話をもう一段深めることもできます。ヨブは、正直なことばは痛い、と言いました(6:25)。ソロモンは 「愛するものが傷つけるほうが真実である」と言いました(箴言27:6)。それでは、離婚からまだ日が浅く、立ち直ろうとする過程にある人にとって、どのようなことばが正直だと言えるのでしょう。これはほんの一例です。

  • 「今あなたは、肉体的にも精神的にもすごく傷つきやすいのよ。心も身体も大事にしてね。」
  • 「お金や家のことについて、性急な決断はしないほうがいいかもしれないね。」
  • 「いつか子どもたちは、離れて暮らす親と会うことに戸惑うようになるかもしれないから、気をつけてあげてね。」

苦難の中にいる人たちは、正直で現実的に役立つ、真の友からのことばを必要としています。腫れ物に触るような言い方は、往々にして不必要な緊張を生んでしまいます。

私の子どもたちがまだ幼かった頃のことです。ガンで闘病中の義母を訪ねるため、子どもたちを連れて、遠方までつらい旅をしました。つらかったことのひとつは、おばあちゃんの病気と避けようのない死について、だれもオープンに語ろうとしなかったことです。ベッド脇での会話は、肝心なことは避け、どうでもいいことに終始しました。みなが分かっていることを、だれも口にしようとしなかったのです。

しかし、階下の台所では、死についてありのままの会話が抑えた調子でささやかれていました。7歳の息子が「おばあちゃんは死ぬんだ」という言葉を耳にしました。彼は、二階の寝室に上がって行って言いました。「おじいちゃんがね、おばあちゃんは、もうすぐ死ぬって。」

神が、この小さな子によって真実を伝えてくれたのです。最善の方法ではありませんが、沈黙の掟は破られました。涙を流して抱きしめ合い、ようやくみなが思うままを話せるようになりました。現実を認めて、率直に愛をもって相手を気遣いつつ、目の前の問題に取り組めたのです。子どもの無邪気な発言は許されますが、しかし、私たち大人はそうはいきません。困難な日々の中で苦しむ友人に、役立つ正直なことばを伝える術を、主の助けを得て学ぶ必要があります。

理解できない苦難もある

人生には、大なり小なり苦難がつきものです。大地震や津波のように、地域全体に喪失、悲嘆を与える自然災害もあれば、ホロコーストのように、世界中に広範な影響を与えた人間の罪の産物もあります。また、ある人や家族だけに影響する、極めて個人的な苦難もあります。

いずれにしても、それらすべてに共通するものがあります。苦難があること、そして、なぜそれが起きたかを理解しようとする葛藤です。ヨブ記の結論にその答えがあれば良いのにと、誰もが思うでしょう。38章で神がついに語られる時、人間の苦しみについて何らかの明確な答えが出されることを期待します。ところが、物語は急展開します。神は答えを出すのではなく、逆に問いを投げかけます。動物学、天文学、気象学、その他の科学分野についての問いです。

ヨブは、全能の神の前に言葉を失って立ち尽くします。彼は「なぜ?」という質問への解答を求めますが、神は「誰が」で答えられます。ヨブへの(そして私たちへの)教訓は、「神がこれほどまでに素晴らしく宇宙を動かしておられるのなら、私たちの人生に起こる理解できない事柄についても、神の愛と知恵を信頼できる」ということです。

苦難の意味について思い悩むときは、 ヨブ記の38、 39章をお読みください。 そして、 困難なところを通っている人の話に耳を傾けている時は、神が究極の慰め主であられることを信じましょう。

苦しむ人に仕えるのはキリストに仕えること

ヨブの物語は、3人の友人たちが主から叱責され、ヨブ自身は驚くべき回復をして終わります。ヨブは、自分を大きく失望させた、お粗末な慰め手たちのために祈りました。すると主は、「ヨブの所有物も二倍に」増され(42:10)、彼の状況が一変します。さらに10人の子どもも生まれて、その歓声がヨブの農園に満ちました。痛みに満ちた41章の後に、なんと素晴らしい結末でしょう。

ところで、ヨブの物語の最終章は、深い喪失を経験した人に手を差し伸べようとするとき、どのような助けになるでしょうか。ヨブは家畜を取り戻し、新しい子どもたちをも得ました。ということは、私たちもハッピーエンドを約束できるということでしょうか。

ヘブル人への手紙11章にある、偉大な信仰の章が参考になります。「剣の刃を逃れた」人もいれば(34節)、「剣で斬り殺された」人もいました(37節)。苦難が神による謎であるように、回復も神による謎なのです。

今、苦しみの中にいる家族、また友人に、神が将来何をなさるのか、私たちが知ることはできません。しかし、その人たちの話に耳を傾け、希望を与えるように、優しく正直に語る励まし手になることはできます。

ですから、困っている人がいたら、逃げずに向き合いましょう。理解しようという心を持って、耳を傾けましょう。イエスの約束のことばが、あなたの励ましとなります。

「『あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』
すると、その正しい人たちは、答えて言います。
『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』
すると、王は彼らに答えて言います。
『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』」(マタイ25:35-40)

キリストの愛をもって傷ついた人に手を差し伸べるとき、 あなたはキリストご自身の愛を届けているのです。 そして、 苦しんでいる人に仕える時、 あなたはキリストに仕えているのです。